滋賀県を代表する観光地・近江八幡市。近江商人発祥の地としても知られ、多くの観光客でにぎわっています。その中でも、町の中心的観光シンボルとなっているのが八幡堀です。水や魚のあるところには、にぎわいが集まってくる。以前、ある取材で京都人が放った名言通りのシチュエーションがありました。
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◆八幡城と八幡堀
人口約8万人の滋賀県近江八幡市。八幡山は標高271.9mの八幡山は、市のシンボルでもあります。
八幡山山頂付近から見た近江八幡の中心部。かつては近江商人のまちとして、繁栄を遂げました。この位置からは八幡堀の姿は確認できません。
くっきりと山が削られている奇異な光景は、煉瓦製造会社の跡。高度経済成長時には、煉瓦造りもこのまちを支えてきました。
反対側を見ると、さきほどとは打って変わって広大な田畑が広がり、琵琶湖もすぐ近くまで迫っています。
今ではロープウェイを使えば、八幡山の山頂まであっという間。
地元からも、観光客からも、近江八幡は人々に愛されています。
近江八幡へは何度も足を運んだことがありますが、ここまできたのは初めてでした。元はといえば、ここは安土・桃山時代に豊臣秀次が築城した八幡城があったところ。眼下のシーンも、城下町として栄えたのでした。
こんな道も。そう、八幡堀と八幡山は切っても切れない関係にあったのです。
◆まるで絵葉書のような風景
白雲橋から見た八幡堀の定番アングル。白い土塀や古い民家、そして堀には屋形船が。しかも堀の両サイドには遊歩道まで設けられ、さまざまなアングルで水の風景を楽しむことができます。
遊歩道から見るとこんな感じ。木々が生い茂り、目にもやさしい風景に心まで癒されます。
場所を変えると、こんなシーンも。そのたたずまいから、時代劇のロケ地としてもすっかり有名になりました。
屋形船が静かに通りすぎて行ったり。
船着場だってあったりします。
ふと見上げると、こんな風景も。あてもなく散策していても、退屈しない風景ばかり。秋の観光シーズンに入ると、さらに観光客でにぎわうことでしょう。
◆壮絶な過去とともに
八幡城とともに、琵琶湖とをつなぐ城下への水路として大きく発展してきた八幡堀。町の繁栄に大きな役割を果たし、江戸時代後期には近江国として大津と並ぶにぎわいをみせたそうです。
以後昭和初期まで、経済・流通路として反映しましたが、戦後の陸上交通の発展によって徐々に衰退。昭和30年代に入って高度成長期を迎え、やがて八幡堀は市民からも忘れ去られる存在になってしまったのです。
その結果、今の姿からは想像もできないほど水質環境は最悪の状態に。心ないゴミの不法投棄などによりヘドロが堆積し衛生面でも悪化。ついには埋め立てもやむなしという気運が高まり、ほぼ決まりつつありました。
それを危惧したのは、地元の青年会議所などに所属する若いメンバーでした。合い言葉は「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」。決して観光目的のための堀ではなく、これまで培った歴史の灯を消してはならないという、確固たるポリシーからでした。
その後、長年の地道な活動が功を奏し埋め立て計画はやっと白紙に戻され、見るも無残だった八幡堀は市民たちによる大清掃を中心とした環境整備により再生運動がスタート。根強い反対運動にも屈することなく、約30年の歳月を費やして八幡堀は「近江八幡の顔」として見事によみがえったのです。現在の姿が美しいのは、そんな先人たちの努力があったからにほかなりません。
◆残してよかったもの
そんな凄絶な過去があったとは思えない、穏やかな風景。八幡堀そのものだけでなく周辺の道路や町並みも整備され、近江八幡を代表する観光地として全国に知れ渡りました。
行政や民間がひとつになってよみがえった八幡堀。たかが堀、されど堀。今では人々の生活に直接関係するものではないかも知れませんが、人々にうるおいを与えていることだけは確かです。
もしあの時、誰一人反対することなく埋め立てが行われていたら。そう考えると、環境保全に立ち上がった人々には頭が下がる思いです。
八幡堀という場所が映画のロケ地として人気を呼ぶこともなかったでしょう。
その後の保全努力が実って、現在では国の重要伝統的建造物群保存地区として指定。埋め立て計画があったころと比べると、格段のバージョンアップとなりました。だからこそ、この風景は永遠に残していかなければなりません。
水や魚のあるところには、人が必ず集まってくる。そんな名言通り、近江八幡も例外ではありませんでした。