JR大阪環状線・西九条駅。あのテーマパーク・USJへの玄関口として知られていますが、あまり知られていないユニークなスポットが「安治川隧道」なる河底トンネルです。コンクリートの箱を川の底に沈めてトンネルをつくる沈埋工法としては日本初。また、歩行者用の河底トンネルとしては、関門トンネル(山口・福岡両県)や川崎港海底トンネル(川崎市)くらいしかない貴重な存在なのに、なぜか注目されていないのが残念です。そんな川の底に注目すべく、とっておきのスポットを訪ねてみました。
☆ ☆ ☆
◆かつては居留地としてにぎわった安治川
西九条駅はJR大阪環状線と阪神なんば線でつながっています。かつては終端駅だった阪神西九条駅も、なんばまで延長。この3月でちょうど開通10周年を迎えました。
駅から歩いて10分ほど。安治川にかかる阪神電車の鉄橋が見えてきます。一方、駅から伸びる道路は突き当たりでジ・エンド。あとは右折か左折すればいいだけのことなのですが、何だかこのあたりだけが時代に取り残されたような哀愁さえ漂っています。
哀愁が漂う理由のひとつは、目の前にある鉄筋コンクリート4階建ての建物のせいかも知れません。土地勘のない人にとっては、これが何の建物なのかもはや知るすべもなく。この建物こそ、一度訪ねてみたかったディープなスポット「安治川隧道」の目印だったのです。
安治川隧道は、知られざる大阪市のディープスポット。安治川の名前は知ってても、トンネルのことまでは知らない人が結構多かったりします。川幅は約80m。この川の下に、まぎれもなく人や自転車が通行していると思うと、不思議な感じです。トンネルは阪神電車とほぼ平行し、対岸にトンネルの管理棟がもうひとつみえます。
明治時代、この石碑のある大阪市西区川口周辺は外国人居留地として大変にぎわいました。このため、安治川橋が建設されたり渡船が運航したりして、人々の利便性を図られました。しかしながら、洪水などの自然災害の影響を受けることも少なくありませんでした。当時は海上交通が中心の社会。船のマストの高さが支障なく通航できるよう、西欧文化を取り入れた回転式の鉄橋がつくられたこともあったそうです。
はるか向こうに京セラドームの建物も見えます。
観光用と思われる小さなチャーター船も安治川を通航。船の行く先には国道43号の安治川大橋、さらに西進するとUSJ方面へと続きます。
安治川大橋方面。目の前には大阪環状線、はるか向こうに背の高い建物が立ち並ぶUSJが印象的です。
◆目指すはビルの4〜5回に相当する川底
安治川隧道は、安治川橋や渡船に代わるものとして、昭和10年に着工。トンネルという交通手段は当時としては画期的で、しかもコンクリートの箱を複数沈めてトンネル構造にする沈埋工法としては、わが国初の試みでした。着工から9年。終戦の1年前の昭和19年に完成しました。工期が長かったのは戦時中だったからでしょうか、いずれにせよ完成後は陸上交通の利便性に大いに貢献しました。
管理棟の正面には、大型エレベーターが1基。かつては係員がいて運行管理していたそうですが、現在は利用者自らのボタン操作により自動で上下を行ったりきたり、終日フル稼働しています。
すぐとなりには、階段もあります。エレベーターに乗るか階段で上り下りするかは、利用者次第。ちなみに歩いてみると全部で93段。ビルだと4~5階に相当する感じでしょうか。上り下りは決して楽ではないと思いますが、みていると階段を利用する人は少なくありません。
◆車も通行していた珍しいエレベーター型トンネル
ん?これは一体?目を凝らしてみると、閉ざされた大きなシャッターが2つ。しかもその間にはエレベーターの表示らしきものが。
そうなんです、安治川隧道はかつて車も通っていたのです。しかも人用と同じくエレベーターでいったん川の底へ下り、そこからトンネルを使って対岸へ渡り、再びエレベーターで地上へ。スケールこそ違うものの、構造的には人も車もまったく同じ。これには驚きました。
安治川隧道完成から18年後の昭和38年には、国道43号に安治川大橋が完成。大動脈の役目が安治川大橋に奪われたかたちで、車の通行量は減少傾向に。エレベーターとトンネルという構造上、排ガスの問題もクローズアップ。エレベーターではなくスロープを使ってはどうかと検討されたこともありましたが、結局すべてのリニューアル計画は頓挫。昭和52年、モータリゼーション華やかなりしころ、時代に逆行するように車用トンネルはついに完全閉鎖されてしまったのです。世にも珍しい、エレベーターを使った車用トンネル。もし今も現役でいたら、間違いなく珍百景に認定されていたことでしょう。。現役時代の雄姿を、ぜひ見てみたかったです。
すっかり錆びついてしまった車用トンネルの入口は、みるからに経年変化を物語っています。この光景を見ていると、当時は車がここに停車して自分の番を待っていたんだろうなと、ついつい妄想してしまいます。1台のエレベーターには1台の車しか乗れないだろうから、車が数珠つなぎに並んでさぞかし渋滞したに違いありません。環境問題はもちろん、1回に1度しかエレベーターに乗せられない効率の悪さがコストに見合わなかったのでしょうか。歴史資産ともいえる建造物に寄せる興味は尽きません。
◆警備員のサポートで24時間通行可能
トンネルには利用者が途切れることがありません。自転車の利用者も多く、この場所が市民の足として定着していることがよくわかります。「トンネルを使って西九条駅まで出れば、あとは3駅で大阪駅に行けるんです。ぐるっと地下鉄を使って回るより、はるかに便利なんです」と地元の人の声。なるほど、安治川の対岸は地下鉄九条駅なので、このトンネルを利用すれば劇的にショートカットできます。
エレベーターに乗って、わずか1分足らずで川の底に到着。ここが川の底か、などと感慨にふけっている人は誰一人いません。黙々と、ごく当たり前のように歩いたり自転車を押して歩いたり。撮影のためにカメラを出してパシャパシャやってても、我関せず。
トンネルの幅は2.4m。ほどよく真ん中にセンターラインが敷かれ、利用者は左側通行をちゃんと順守しています。
トンネルの天井部分にとりつけられたスプリンクラー。作動時にはシャワーの嵐になるのでしょうが、幸いなことにスプリンクラーのお世話になったことはいまだかつてありません。
各種注意書きもしっかり書かれています。
警備員さんは終日配置。エレベーターの運転は原則的に22時まで。といっても、階段利用は24時間OK。そのための警備も、24時間体制で行われています。利用者ひとりひとりに「こんにちは」と束の間のコミュニケーション。川の底で会話を交わすのは不思議な感じがしますが、だからこそ何かホッとした気分にもさせられます。
ここがトンネルの中間点。そう、かたや大阪市此花区、こなた大阪市西区。文字をみると、トンネルの管轄は大阪市建設局のようです。
よくみると、トンネルは一直線ではありませんでした。
歩いて2~3分、対岸の大阪市西区側に到着。あまりにもあっけない川底の旅でした。
建物は此花区とほぼ同様ですが、運行監視室がここにあります。
◆時代に翻弄されたトンネルの運命
さきほど此花区側でみたものと同じだとわかっていても、車のトンネルの入口付近を再度しげしげと。完成から閉鎖になるまで、約30年間も現役であり続けたことは賞賛に値します。
エレベーターのあったどっしりとした建物に近づいてみると、もしかしてこれは磨けばヒッカピカになる御影石?遠くからみても気付きませんでしたが、御影石が使われているなんて、これまたびっくりでした。なぜこんなに立派な仕様だったのでしょう。
トンネルのことを色々調べていると、こんな説もありました。このトンネルは軍事利用される予定でつくられたのではないか、と。西区側から道が一直線に東へ伸びて、かつてアジア最大級の軍事工場といわれた大阪砲兵工廠(こうしょう)とほぼつながっていたという点。これは現在の長堀橋筋にほぼ相当します。反対に、此花区側の先には桜島ふ頭があり、ここがアジア諸国への海の玄関口であったという点。つまり、軍事工場でつくられた各種兵器を河底トンネルを利用して運ぼうとしていたのではないか、ということです。しかも川の底を走るトンネルなら、敵機にみつかることもありません。
工事に9年もの歳月を要しながら、戦局が悪くなった昭和19年の完成では時すでに遅し。結果的に軍事利用されることはありませんでした。数奇な運命をたどってきた安治川隧道。今も真実はハッキリしていません。
「源兵衛渡」と記された、トンネルの西区側の交差点。トンネルができるまで、安治川橋だけでなく渡し船も人々の足として生活を支えていました。大阪市内には今も現役の渡し船が数カ所で運航されていることは周知の通りですが、さまざまなドラマがあったのは安治川唯一といえるでしょう。
「キララ商店街」。ここを道なりに進んでいくと、地下鉄中央線・九条駅へ。さらにその先を進んでいくと、京セラドームへ出られます。
通な外国人観光客やUSJで働く外国人スタッフが、トンネルを利用してここまでやってくることも少なくありません。彼らにとってトンネルがユニークでディープな存在かどうかは知るよしもありませんが、観光スポットや職場への合理的アクセス=近道であることは確かです。
安治川隧道は今年9月15日で完成からまる75年。トンネルの建設理由がもし軍事目的だったのだとしたら、その理由もトンネルの跡も永遠に川の底に眠らせておきたかったのかも知れません。2度と車が通ることのない車用のトンネルは、決して公開されることはないものの今も壊されることなく川の底に現存しているそうです。
しかしながら、今も生活の重要な足として欠かせないのは事実。トンネルの利用目的は当初と違ってしまったかも知れませんが、大阪市民にとって平和利用されていることは間違いありません。