今年の大河ドラマは、戦国時代を駆け抜けた明智光秀が主役。光秀といえば本能寺の変があまりにも有名ですが、そんな歴史的ピークの舞台となったのが、光秀が城主だった滋賀県大津市の坂本城でした。坂本城はびわ湖で最初に建てられた水城。湖上交通が盛んだった当時のびわ湖の恩恵を受けつつ、城主としてさらなる上を目指そうとしたのですが夢は叶いませんでした。坂本城は、一体どんなたたずまいを湖面に映していたのでしょうか。オンエア直前の大河ドラマにあやかって、現地周辺を訪ねてみました。
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◆鐘と最澄との因果関係
JR湖西線・比叡山坂本駅前広場は、大河ドラマのオンエアを前に少しずつ盛り上がっています。きっとこの地にもドラマが進行するに従って、多くの観光客が訪れることでしょう。
駅のすぐ近くにあった坂本石積みの郷公園。坂本といえば、石垣づくりなどで独自のノウハウを持つ石積み職人・穴太衆のホームグラウンド。それをイメージした公園は、随所に石垣があしらわれていました。
さほど広くない公園のスペースに、現役ではなさそうな古めかしい鐘が一体。案内板によると、1571年(元亀2年)に起きた織田信長による延暦寺焼き討ちの際、それを知らせるために打ち鳴らし続けたあまりに、鐘本体にヒビが入ってしまった鐘なのだそう。通称・破れ鐘。焼き討ちの危機を一人でも多くの人に知らせたかったのでしょう、よほど力強くしかも長時間鳴らし続けないとヒビなど入りません。
乱世を極めた戦国時代。この滋賀県にも、多くの戦国武将が名を連ねていました。延暦寺焼き討ち。僧兵のただならぬ実力を認めていたのか、信長は徹底して叩き潰したかったのでしょう。一つの鐘をじっと見ていると、そんな歴史のひとコマが見えてきます。
破れ鐘のそばには、若き伝教大師・最澄の像。この人物こそ天台宗総本山・比叡山延暦寺を開いたキーマンであり、姉川の戦いの絡みで信長と敵対関係にあった浅井・朝倉寄りであったのが比叡山であったことも焼き討ちの要因のひとつだといわれています。焼き討ちの際に打ち鳴らされた鐘と、最澄の像。公園に建てられたオブジェにしては、あまりにも生々しいシチュエーションといえなくもありません。
焼き討ちのあった当時、破れ鐘は日吉神社の門前町内の生源寺にありました。今回初めて知ったのですが、焼き討ちの標的になったのは比叡山だけでなく、坂本周辺に住んでいた僧兵や住民にまでおよびました。自分たちの住むまちがあたり一面火の海となり、しかも女も子どもも無差別に人が殺されていく。こんな恐怖のシーンにリアルに居合わせたからなのでしょう、ヒビが入ってしまうほど鐘を打ち鳴らした理由もこれで理解できました。
また生源寺は、さきほど像で見た伝教大師の最澄が産湯を浸かったとされる井戸があることでも有名です。こんな因果関係があったとは、歴史はいつも残酷です。
きれいに整備され、石垣が誇り高く積まれている坂本エリアの一角。449年前、自分たちが育ったまちが信長の手によって無残に焼き尽くされていく。僧兵も町民も穴田衆たちも、さぞかし無念だったに違いありません。
これも今回初めて知ったのですが、焼き討ちを実行したのは信長ではなく、光秀でした。長年光秀に信頼を置いていた信長の指示によるものではあったものの、光秀の軍勢こそ実行犯だったのです。そして、焼き討ちの功績を認めた信長が光秀に建てさせたのが坂本城だったのです。本能寺の変1582年(天正10年)の11年前。光秀43歳の働き盛りでした。火から水へ。もしかしたらこの焼き討ちのノウハウが、本能寺の変にも流用されたのかも知れません。
◆坂本城に寄せる「市民感情」
水城・坂本城は、びわ湖で最初に建てられた水城でした。海や川など水のある場所に隣接して建てられた水城。坂本城も、びわ湖という大きな水の舞台に寄り添うように建てられました。びわ湖といえば、湖上交通は古来より湖上交通がさかんでした。陸上で街道をぐるりと回るよりも、港と港を一直線で船でつないだほうが合理的だったからです。だからでしょうか、天下取りを目指した多くの武将たちがこぞって水上権を牛耳ろうとしたのも、いかにびわ湖の水運支配が政治的・軍事的に重要だったからにほかなりません。坂本城のすぐ近くにも、三津浜港という大きな港がありました。船の発着が多く物資の運搬が盛んに行われ、きっと城下町もにぎわったことでしょう。その姿は想像するしかありませんが、焼き討ちによって壊滅的被害を受けた坂本の門前町の状況とは、あまりにもかけ離れていました。
水城を築城するもう一つの目的は、敵が責めにくい状況をつくることでした。比叡山を背後にして、びわ湖に本丸を構えた坂本城は、軍事要塞としてはうってつけでした。水に面した水城独自のディフェンス構造。光秀にとって水をうまく味方に取り込んだ防衛の要でしたが、一説によると安土城築城を前にした信長のシュミレーション的な意味合いもあったといわれています。
坂本城址の石碑がまちの中にありました。単なる石碑ではなく、まるでお茶の集まりが行われていそうなパフォーマンス。かつては、堺の茶人を招いて坂本城内で茶会を開くことも珍しくなかった光秀。そのワンシーンを再現したような演出が印象的です。
残念ながら、当時の面影が残る歴史遺構はほとんどありません。城下町としての名残もありません。もしかして、延暦寺焼き討ちの片棒を担いだ光秀に対して住民感情を逆撫でした結果なのでしょうか。信長から坂本城の築城を命じられた大きな理由は、引き続き延暦寺の動きを監視することだったそうですから、当時は町民や武士の間でギスギスした空気が漂っていたのかも知れません。
この付近にはかつて内堀があったところ。今は水の姿を見ることはできません。埋められた堀は北国街道の一部として、その後旅人や商人の重要なアクセスとなりました。
現在は雨水や下水道などのライフラインが整備され、ちょっとした遊歩道風になっています。よく見ると、その模様は築城の土台でもある石垣をモチーフにしているようにも映ります。
坂本城があったのは、現在の町名でいうと大津市下阪本3丁目付近。坂本ではなく阪本と表記されているのは、「土(ヘン)に返る」という字の意味を地元の人たちが嫌ったからだとか。このため、明治時代に入ってから「坂」を「阪」に変更、現在に至っています。そういえば、大阪もかつては「大坂」でしたが、同じ理由でそうなったという説もあります。
光秀の実質的な墓だといわれている、明智塚。一般住宅の一角にひっそりとたたずんでいました。本能寺の変が起きた同じ時に山崎の合戦途上で命を絶たれた光秀は、坂本城落城とともに54年の短い生涯を終えました。その際の遺品ともいうべき刀や武具などが、ここに埋められているといわれています。現在は地元の人々によって大切に管理され、献花が絶えることはありません。
小高い丘のような土盛りの向こうには、比叡山が。信長の指示通り、延暦寺の焼き払いには成功したものの、坂本の町民に恨みを買ったはずの光秀。今こうして、地元の人たちに厚く祀られているのも皮肉な結果ともいえるでしょう。
◆やっぱり信長のパワハラはあった?
湖岸には坂本城址公園があります。坂本城が水城としてどんな風にびわ湖畔にたたずんでいたのか、坂本城から見るびわ湖はどんな風景だったのか。そんな思いをあれこれ馳せるには絶好のロケーション。今は人影もまばらですが、大河ドラマが始まったらこの場所も超有名スポットになることでしょう。
ボランティアガイドさんが観光客を案内する光景も。ガイドさんとあれこれ言葉を交わしながら、それぞれのイマジネーションで光秀を語るひととき。歴史好きファンにはたまらない時間です。
真向かいに見える山の奥が、かつて安土城があったあたりです(1576年・天正4年築城、1585年落城)。はるかかなたには、雪をかぶった伊吹山の姿も。光秀はもちろん、正妻・熙(ひろ)子を始め幼少時代の明智光慶や、のちに細川忠興の正室となる細川ガラシャも、このレイクビューに癒されたことでしょう。そして、はるか遠くの安土城から呼び出しののろしが上がれば、光秀は急いで支度をして船で安土城へ向かったのでしょう。湖上をすべりながら、「もう少し辛抱すれば、すぐに拙者の時代がくる!」などと信長を信じ自分を信じ続けたのでしょうか。
やさしい表情をした光秀の石像が公園内に。武士らしく凛々しい姿ではなく、温厚でフレンドリーな人柄を表しているかのような表情が印象的です。
「光秀(おとこ)の意地」(歌/鳥羽一郎)と題した歌碑も。作詞したのは坂本出身者。すでに故人だそうですが、冒頭のセリフ、特に最後のフレーズが印象的です。「これが光秀の本音でござります。一寸の虫にも五分の魂。やらねばやられる戦国の掟。わしは主(あるじ)を間違えたようじゃ」と、光秀の無念さが悲痛なまでに表現されています。主を間違えた。。今なら、反りの合わない上司がいたら退職を考えればいいとは思うのですが、そうはいかなかった乱世の時代。俗にいわれる信長のパワハラは、本当にあったのでしょうか。
湖畔にたたずむのは、日吉神社の「山王鳥居」と同じテイストでつくられた、いわば山王鳥居のレプリカとでもいうべきもの。ここは、毎年4月に行われる日吉神社の船渡御の舞台にもなる場所。この桟橋から数基の神輿が湖上に出ていく神事が行われます。光秀が城主だったころも同じ神事が行われていたとしたら、戦いのない平和な日本を祈っていたのかも知れません。
◆湖面に現れた石垣群と光秀の思い
公園に隣接しているとある会社の研修所前には、本丸跡の碑が。うっかりすると見落としてしまいそうな位置にあるのですが、最近の調査で本丸の位置がこの付近だったという説が強まり、修正の意味もこめてここに建てられました。
その根拠となったのは、1995年のびわ湖大渇水の際に、坂本城の石垣の一部とみられるものが湖上から姿を現したことでした。研修所の裏手に長さ20メートルに渡って石垣の一部が出現し、当時は大きな話題を呼びました。そして、この場所こそ、もっとも本丸に近いところだと確信されたのです。こんな場所で、しかも大渇水という微妙なタイミングでの石垣出現。光秀の思いが石垣群に伝わったのだとしたら、一体光秀は何を後世にメッセージしたかったのでしょうか。
目を凝らして湖面をよく見ると、確かにこつごつとした石がいくつも見えます。この下には、おもっと大きな石垣群があるのかと思うと、ますます想像はふくらみます。
水位の低い冬の時期だからでしょう、石の一部がほんの少し湖面から不自然な姿を現しています。大渇水があるまではまったく姿を現さなかった石たち。誰も気づかなかった本物の石垣群。近畿の水がめ・びわ湖の渇水など今後も起きて欲しくありませんが、歴史ファンならずとも石垣群をまた見てみたいと思う気持ちとの交錯。揺れ動く心の機微は、まるで何かと謎の多い光秀の生涯を表しているような気さえします。
坂本城は1986年(天正14年)に廃城となり、同じ年にびわ湖2つ目の水城・大津城が誕生。1601年(慶長6年)には徳川家康によって廃城となり、続いて膳所城が築城。結果的には3つの水城が築かれましたが、最後の膳所城も1870年(明治3年)に廃城となり、びわ湖と水城の縁もこれで終焉を迎えました。
坂本城の片鱗も、三津浜港としての面影もここにはまったくありません。湖のある風景にたたずんでいると、さまざまな思いが去来します。果たして光秀は本当に信長を恨んでいたのか。もしかしたら信長の傍若無人ぶりに耐えかねて、民衆を代表して大鉈を振るったのではないだろうかなど、歴史のロマンは果てしなく広がります。
ただ、信長の命令によって実行した延暦寺の焼き討ちでしたが、壊滅状態に陥った坂本エリアの門前町を復興の手助けをしたのも光秀だったという功績の事実を、私たちは忘れてはならないでしょう。