周囲を水で囲まれた集落。環濠(かんごう)集落と呼ばれ、乱世の時代、主に敵などから身を守るための防御手段としてつくられました。このほか、農業用水としての役目も担っていた環濠集落。普段は金魚関連の取材で訪れることの多い奈良県大和郡山市ですが、全国屈指の環濠集落が現存していました。
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◆賣太神社と古事記
大和郡山市のほぼ中心部。稗田(ひえだ)エリア。今では田畑が広がるのどかなシチュエーションですが、昔は稲作に適していない痩せた土地だったため、稗の栽培をしていたといわれています。
同エリアには、古事記の編纂に大きな役割を果たしたといわれている稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀った賣太(めた)神社があります。
毎年8月には、稗田阿礼にちなんだ伝統行事「阿礼祭」が境内で行われています。
今年7月から11月末には、大和郡山市観光協会による稗田阿礼にちなんだイベントも開催。歴史リアル謎解きゲームを通じて、多くの古代史ファンが訪れました。
◆全国でも珍しい環濠集落
緑で覆われた神社の外壁に沿うようにして水をたたえているのが、稗田環濠集落を形成した堀。環濠集落は全国につくられましたが、これほどの規模で現存しているのは極めて稀少なのだそうです。
水面を見ると、市民が放流したのでしょうか、外来種・アカミミガメがたくさん生息しています。魚の姿を確認することはできませんでした。
環濠集落の南側に沿って西へ。
環濠集落を説明した案内板も整備されています。
環濠集落は、かつて奈良盆地には240カ所あったといわれています。そのうち大和郡山市内には約30カ所もありました。なぜそれほど多くの環濠集落があったのかは、よくわかっていません。
その中でも、稗田環濠集落はそのたたずまいを今もとどめている全国でもレアなケース。市内では、ここ以外にも若槻環濠、番条環濠がありました。このため、全国の環濠マニアや歴史ファンが訪れる姿を見かけるのも珍しくありません。
地元のコミュニティバスのバス停も。マイカーでなくても、JR郡山駅や近鉄郡山駅とのアクセスも良好。土日以外は市内の主要住宅地などをキメ細かく巡回しています。
◆かつての防御集落の今
稗田環濠集落の成り立ちははっきりしていませんが、室町時代には現在のかたちになっていたと考えられています。。稗田地区の水は、山からの伏流水が流れ込んだ奈良市最大級のため池・広大寺池が水源でした。大和郡山市内には大小いくつもの川が流れていますが、盆地だからでしょうか昔は水には苦労した歴史もありました。
下ツ道。古代の奈良盆地につくられた直線道路網のひとつです。この道以外にも、中ツ道、上ツ道の3本が並行してまっすぐ南北に伸び、位置的には平城京跡と藤原宮跡とを一直線に結んでいます。
堀の部分は、平成に入ってから柵をするなどの護岸工事が行われ整備されました。観光スポットとしてだけでなく、市民の憩いのスポットでもあります。
稗田環濠集落は東西250m、南北250mのほぼ正方形で構成。集落そのものの面積は約260㎡。堀の幅は短いところでは7m、広いところで15mもあったそうです。かつては堀の内側に土塁が盛られ、外側には竹を植えることで外敵の侵入を防いでいたといわれています。
環濠内には約100軒の家々が。昔は専業農家が多かったそうです。
白い外壁が景観とマッチしています。
ひときわ目を引く真新しいモダンな建物も建てられ、時代の移り変わりを感じずにはいられません。
このあたりが一番のビュースポット。大きな屋敷や蔵などとの対比が絵になります。
水のある風景ではよく見かけるこんな跡が、ここにもありました。見たところさほど古い感じがしませんでしたが、なぜこのような構造物があったのでしょうか。
◆今もある人々の暮らし
環濠の北東部付近には、堀がいくつも折れ曲がった「七曲がり」といわれた一部分が。
一説によると、鬼門よけのためではないだろうかともいわれています。
そして堀は売太神社の東側まで一直線で続きます。これでほぼ一周したことになります。ただしこの先は農地として使われている私有地でもあることから、足を踏み入れることはできません。
水のあるところから人々のくらしがある集落へ。堀にかけられた橋を渡るという感覚は、なぜかまったくありません。
ひっそりと静まり返った集落。ここからは空気が違います。
道幅もかなり細くなっています。
そしていくつもの細い道が縦横に入り組んだ独特の構造。集落を防御するべく、こうした道の入り組みは昔のままなのかも知れません。
環濠内には立派なお寺もありました。
今も人々のくらしがあります。
実際に住んでいる人の話を聞きたかったのですが、集落でくらす人とお会いすることはできませんでした。
◆戦国時代の遺産として
稗田環濠集落の史料はほとんど残っていませんが、かの初代郡山城主・筒井順慶氏が、このエリアを焼き払った史実は残っているようです。どの程度の被害が出たのか、その後の詳細もわかっていません。
もとはといえば、村と村との争いから身を守るために弥生時代に生まれたといわれている環濠集落。この構造そのものが、その後城の堀としても取り入れられたともいわれています。
環濠集落の向こうに広がる新興住宅地。新旧入り交じったランドスケープ。
かつては人の命を守り続けてきた環濠。現在は農業用水としての役割を果たしながら、人々の食生活を守っています。
金魚のイメージの強い大和郡山ですが、こんな興味深い歴史もあったとは思ってもみませんでした。