忠臣蔵の舞台として知られる兵庫県赤穂市。水道の民営化がクローズアップされる今、「日本一水道料金の安いまち」として注目を浴びています。アクアユーザーにとってもついつい気になる話ではありますが、水の風景をたどってみると、400年以上も前に上水道が設置されていた歴史ある場所でもあったのです。今も昔も、人々のくらしに欠かすことのできないライフライン。そんな歴史にロマンをはせながら、水の歴史をたどってみました。
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◆水道料金が安い理由
市内を南北にたどりながら、やがて瀬戸内海に流れる千種川。その水質のよさが評価され、日本の名水百選にも選ばれています。兵庫県北部の上流では源流の自然保護後や水質保全の取り組みも行われるなど、県民にとっては大切なオアシスにほかなりません。
水質が良好な上に、水量も豊富。川以外の水源として地下水も豊富だそうで、赤穂市のホームページによると、供給量の半分まで占めているというから驚きです。しかも浄水場は1個所だけで賄えるとあって、水道設備のコストパフォーマンスにも貢献しています。
雄鷹台山からみた赤穂市。現在の人口は5万人弱。赤穂上水道が敷かれた江戸時代当時は、このあたり一帯はほとんどが塩田だったそうてす。
大雑把なご紹介でしたが、これらが赤穂市が全国で一番水道代が安い理由です。逆にいえば、これらの条件がすべて整えばどこでも水道代が安くなるのかも知れません。
◆見逃せない先人の努力
あ、肝心なことを言うのを忘れてました。赤穂市の水が安いもうひとつの要因。それは、水道管が市内を効率よく通っていて、管理費などのコトスパフォーマンスにも優れているからなんです。さらにいえば、効率のよい水道管は今に始まったことではなく、江戸時代に行われた市内各戸配水工事が功を奏した結果でもあるからなんです。
今日の水道料金の安さは、先人たちの努力の賜物である旧赤穂上水道の功績があってこそ。そんな歴史が今にも引き継がれているのです。
◆水歴史の遺構を残す坂越
水の歴史は、山陽本線・JR坂越駅から千種川に沿って北へ向かうと、ところどころに歴史の一部をかいまみることができます。その昔、北前船の寄港地であり船主の集落が多くあった坂越エリアは、ほっこりとした古いまちなみが残っています。
そもそも、旧赤穂上水道とは。今から約403年前に、池田長政の赤穂郡代であった垂水半左衛門勝重の指揮によって1616年に完成したもので、当かの江戸神田上水・広島福山水道と並んで「日本三大水道」のひとつといわれていました。そう、あの赤穂意浪士の討ち入りがあった年(1702年)よりも90年近くも前には、すでに上水道の存在があったのです。
なぜ当時から上水道が必要だったのか。それは、この地が低くて平らな三角州にあったからにほかなりません。当時は掘り井戸から海水が湧き出すなどして、飲用水の確保が難しかったからなんです。これを憂慮した当時の藩主は、城下町までのルートの各家に至るまでを給水しようと計画。今でいえば、ある意味神対応。当時の藩主が、いかに地元思いだったかうかがい知ることができます。
水質のいい千種川は、取水のための最高のロケーションでした。旧赤穂上水道もほぼ千種川に沿っています。川の風景をぼんやりながめていると、そんな歴史の一コマを感じずにはいられません。
旧赤穂上水道は、昭和19年の近代的上水道の完成によって飲用水としては使用されなくなりましたが、その後の発掘調査により旧上水道に関連した遺構が数多くみつかるなどして、話題を呼びました。
◆数々の旧上水道遺構が現存
高瀬舟着場跡。当時は北前船が往来したことで、さぞかしにぎわったことでしょう。土手から下におりてみると、入港時ににぎわった当時のことがよみがえってきそうです。
赤穂市のシンボルともいうべき尼子山と千種川の美しいコントラスト。
この時期だと農業用水はありませんが、田植えの時期になると農業用水の恩恵を受けています。
導水路と農業用水路との交差ポイント。「昔は水もきれいでホタルも飛び交い、子どもたちにとってもいい遊び場でした」と地元の男性が話してくれました。
小さな水道橋をよくみると、コンクリートの影に隠れて一番下の層に当時の石材がそのまま残っています。
ほかにも至るところに遺構が見受けられます。
ここが取水ポイント。現在の水道水は、千種川のこのあたりから導かれています。
ここから約3キロ上流に切山隧道があります。いわば水道のトンネル。見学などはできませんが、旧赤穂上水道がつくられた原点ともいうべきポイントです。
導水路はこのまま赤穂城付近まで続きます。市民たちにとっては憩いの遊歩道でもあります。
ふと下に目をやると、洗い場らしき跡が。かつては食器や野菜を洗ったりするのに欠かせない生活施設だったのでしょう。
赤穂市浄水場(一番手前)。市民へのライフラインはここから供給されます。
よくみると、導水路と千種川の合流地点がみえます。
雄鷹台山登山口付近にある戸嶋枡。かつては、農業用水の分岐点であり、水を浄化する役割も担っていました。
戸嶋枡から導かれた水は、城下町の入口となるこの場所で四方に分岐されました。その跡が歩道に記されています。
熊見川への排水溝は今なお現存。しかも城郭同等の「算木積み」という手法によってつくられた石垣の姿をみることもできます。
◆400年の歴史が今もなお
忠臣蔵の舞台ともなった赤穂城は、寛文元年(1661年)に建てられました。特に赤穂城周辺は、旧赤穂上水道ルートがほぼ現在の道下を通っています。400年以上経過した今も、水に対するお殿様の思いが受け継がれた結果だということができます。
近代の修理で改修された旧上水道管が、今も大手門太鼓橋下に現存しています。
忠臣蔵でも有名な息継ぎ井戸。赤穂義士たちが水を汲んで飲んだのも、この場所からでした。
旧上水道のルートがレンガよって表示されているところも。特に「旧上水道」と書かれたマンホールは、時代を超えて地下に残された遺構を今も守り続けています。
市内にいくつか建てられた上水道モニュメントは、まさに上水道の通過地点の遺構でもあります(上/用水分岐モニュメント、中/赤穂藩上水道モニュメント、下/大手門前公園モニュメント)
大手門前公園モニュメントの内部を覗くと、汲出枡跡が見えます。
よくみると、「旧上水道」の文字が。一見マンホールに見えますが、実はこの地下にも旧水道管の遺構が現存しているのです。
このほか、赤穂市立歴史博物館にも旧上水道管や枡の実物や当時の旧水道について、展示・解説ざれています。
旧赤穂上水道の最後は、本丸を経て坪庭から本丸庭園に流れ石垣内を通って本丸外堀へ。
赤穂市というと、どうしても忠臣蔵のイメージが強くなりがちですが、江戸時代中期に刻まれた水の歴史もまた貴重な歴史資産であることに違いありません。
人々のくらしを、400年以上支えてきた歴史あるライフライン。そして全国安い水道料金。山の上から千種川が流れる清々しい風景を目の当たりにしていると、先人が築いてきた水道事業の根底にあった揺るぎなき市民目線を感じずにはいられません。