兵庫県東播磨エリアを南北に流れる加古川に、ユニークなスポットがありました。凝灰岩と思われる岩石が川床いっぱいにゴツゴツと盛り上がり、ちょっとした渓谷のようなロケーション。とはいえ、圧倒されるような景観はほんの一部だけ。周囲とのアンバランスな光景が逆に印象的で、ついつい気になってしまう風景でした。
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◆風光明媚な周囲とミスマッチ
全長96㎞の加古川。川そのものより、どちらかというと市名のほうが全国的には有名だったりします。今回ご紹介するスポットも、加古川市ではなく加東市ありき。
川のところどころに河川敷らしき場所がありますが、この滝見橋付近からはゴツゴツとした岩石などは見当たりません。
下流をみるとそれらしい雰囲気のものが見えますが、渓谷や滝のようなものは見当たらず。ここがなぜ滝見橋というのか、ハテナマーク必至(笑)
まさか異常な増水なんてこともあるんでしょうか。空はこんなに青いのに。
印象的な大きな木。気になる木(笑)。河川の手前(西側)は古い家が多いのに比べて、対岸の東側にはマンションや真新しい住宅が建ち並んでいます。
足元をみると、「闘龍灘」の文字が。なるほど、加古川の水の新百景とも記されています。
目の前には、ゴツゴツとした岩石がむき出しになって、「ようこそ、闘龍灘へ」と迎えてくれました。さきほど遠目にみた岩石と違って、上流にいくにつれてスケールが増していく感じです。
ここまでくるとさらに大きく。河川へ下りられるところも見当たりません。ちょっとした未知との遭遇。それにしても周辺建物とはあまりにもミスマッチ(笑)
さらに上流へ向かうと、ところどころに人工物らしきものが。これは一体何のために誰がつくったのでしょうか。
さっきまでいた大きな木のところを振り返るとこんな感じ。わずか数分で、こんなにシーンが変わりました。ワイルドだろぉぉう~(笑)?
◆深まる謎とともに
ここまでくると、ゴウゴウというウォーターサウンドのボリュームもマックスに近く。まるで、核心部分に近づいていることを轟音で知らせてくれているようです。日傘の貴婦人もどことなく気がそぞろ(笑)
スロープの下には何やらスペースが。あとで聞いたのですが、昭和の時代にはここで魚が売りさばかれていたそうです。えー、こんなところにアクアショップがあった?いえいえ、魚屋さんです(笑)
ゴウゴウというウォーターサウンドを聞きながら、目の前にはコンクリート製の橋が。どうやらこの先まだまだ行けるみたいです。これも人工物のようですが、観光用につくられたものなのでしょうか。
左手にちらっと見えるのは、料理旅館・滝寺荘。確かに風光明媚なスポットではありますが、こんなところになぜ料理旅館があるのでしょう。人工物に魚屋、そして料理旅館。ますます謎は深まるばかりです。
コンクリート橋の手前をみると、ん?これって何かの仕掛け?まさかドラキュラの柩ではないと思いますが(笑)
注意しながらその先まで下りてみると、そこはもうゴウゴウのウォーターサウンドの爆音地。すごい勢いで落差のなるところに川の水が流れ込み、さっきまでのおだやかな風景が嘘のようであまりにもギャップがありすぎます。
晴れの日でこれですからね、雨が降ったあとはさぞかしすごい水量かと。去年の豪雨の際には、滝寺荘の1階部分まで水がきて大きな被害があったのだそうです。
この光景を見て気付いたのですが、さきほどの滝見橋や滝野、滝といったこのあたりの地名や駅名は、すべてこの小渓谷にちなんだ名付けられたものだったのだと。プチ感動です(笑)
◆まさかの日本一早いアユ漁
激しい水の流れをじっとみていると、もしかしからアユなんかがビュッビュッとのぼってくるのではないのでは?と勝手な妄想をしてしまいます(笑)。まさかそこまでは。
あちゃー、その「まさか」でした(笑)。滝寺荘に立ち寄ってみると、こんな置物が。
ロビーにはこんなお土産も。
さらに道路のマンホールには、何とアユがキャラクター化されているではありませんか!
そうなんです、この場所は古くからアユ漁の漁場として知られ、このような施設もそのためのものでした。そして何を隠そう、この場所でのアユ漁は日本一早く解禁となるそうで、毎年5月1日ごろに漁協組合が約250㎏のアユを放流するのだそうです。
これは筧漁に使用される施設。人工的につくられた滝を飛び跳ねた魚が、罠にハマってまんまと人間の手に。ただし、元気がありすぎたアユはさらに飛び跳ねてジャンプし、本流へ戻れてラッキー!というわけです。
◆舟運に貢献してきた先人の功績
まだ疑問は残ります。魚のことはわかりましたが、点在する人工物は一体何だったのか。そのヒントはこの銅像にありました。阿江戸与助氏は、古くから加古川の舟運の発展に寄与した功労者。魚や塩、米などを姫路藩に献上したり、下流の田畑のために治水に尽力したりで、大きな功績を上げました。しかしながら、この付近は巨大な岩石や渓流が舟の通行の妨げになって、ここを通過することは当時では不可能だったそうです。
通行ができない川なんて、クリープのないコーヒーみたいなものですから。古っ(笑)!いつのころか正確にはわかりませんが、岩石のところまで上流からモノを運んできた筏は、仕方なくいったんバラされて再び下流側の岩場で組み直してから出発するという面倒を余儀なくされていたそうです。すなわち、ここは川の要所。この付近には旅館も多数軒を連ねていて、多くの舟運関係者などでにぎわったそうです。今では1軒のみとなった竜寺荘は、その名残だったというわけです。
そうした作業に使われていた道具や施設が、時代を超えて遺構として残っているのが数々の人工物だったのです。具体的に何がどう使われているか定かではありませんが、山の頂上によくあるこんなケルンのようなものも、何かに使われていたのでしょう。
「岩石が邪魔なんだったら、いっそのこと爆破させてしまえばいいじゃん」。舟運の将来を憂いてこんな無茶なことを言う人もいました。まるで「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」的な(笑)。そして村上清次郎氏によって完成したのが掘割水路だったのです。
これが明治時代にダイナマイトで爆破されてできた人口水路。高瀬舟ならちょうど一隻通行できるような幅であることがわかります。この水路によって、悲願の舟の通行がやっとできるようになり舟運は栄えましたが、やがて南北に鉄道網が整備され徐々に衰退していきました。
◆クレーターと大渓谷
闘龍橋からみると、その様子がよくわかります。手前に掘割水路が、その向こう側に小渓谷。掘割水路のおかげで、加古川の水流もふたつに分岐。よくもまあこんなにうまく水路なんてつくれたものです。
間近でみると水流もあってなかなかの迫力です。
足元に注意しながら、岩石の上をそろりそろりと。まるで月のクレーターのようなポットホールも。岩石にできたくぼみに水がたまり小石などが入り込むと、渦流が起こって中の小石がクルクル。結果、円形の穴となって長い年月をかけて少しずつ拡大していくメカニズムです。
部分的にクルーズアップしてみると、まるで大渓谷のよう。この様子を「東播磨のグラウンドキャニオン」とか「加古川フィヨルド」とかいう人がいるとかいないとか(笑)。でもそれわかるような気がします。
やや水の濁った場所には、せっせとコケを食するアブラハヤらしき魚が数匹。この季節はアユの代役としてこの場に生息しています。このほか、アカザやオヤニラミ、ニゴイといった在来種も棲んでいます。
一番川面と近いのがこの付近。でも岩盤が硬いので川遊びには適していません。よい子は絶対に近づかないように。
◆激流ではなく穏やかな時代であれ
ちょっと火曜サスペンス劇場的な(笑)。橋は簡単に渡れますが、岩石そのものがとっても硬くてゴツゴツしているので、何度もいいますが足場にはくれぐれもご注意を。
ちなみに闘龍灘というのは、川床いっぱいに起伏する岩石に阻まれた激流が竜の躍動に似ているからこの名がついたのだそう。
竜寺荘付近には、「闘龍すくえあ」なる施設なども。歴史などについて時系列に書かれています。ただ、河なのになぜ「灘」といわれるようになったのかは、最後までわからずじまいでした(笑)
付近の看板パフォーマンスをみていると、滝にちなんだお店などが色々と。
日本一アユの解禁が早い闘龍灘。それを機に、川床では地元の花火大会も行われるのだそう。珍しく春に行われる花火大会も、もしかしたら日本で一番早いのかも知れませんね。
立ちはだかる大きな岩石に翻弄されてきた、滝のまち。自然と共存しながら歴史を刻み続ける生きざまもあれば、人工的に近代化を推進してきた先人たちの実績も。令和に変わって半年足らず。新時代こそ、激流ではなく穏やかな歴史を刻んでいきたいものです。