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【観光】水軍の大将はアクアリストだった!?☆水のある風景vol.45鳥羽湾を仕切っていたリアス式海岸の戦略家・九鬼嘉隆(三重県鳥羽市・鳥羽城址)

Posted on 2021年10月8日2023年5月13日 by aquariummagazine

大小の島々とともに、リアス式海岸の景観美が印象的な三重県鳥羽。とっておきのオーシャンビューを手中にし、織田信長や豊臣秀吉の下で水軍大将として活躍したのが、九鬼嘉隆でした。リアス式海岸を知り尽くし、数々の戦績を挙げた戦国時代の立役者の本拠地は、海城・鳥羽城。かつては、本丸から鳥羽湾が一望できた場所。水族館や真珠島など、海側の観光スポットばかりに目を奪われがちですが、今も変わらぬ水のある風景を訪ねてみました。

☆     ☆     ☆

◆気軽に散策できる鳥羽湾周辺

伊勢志摩観光の玄関口・近鉄鳥羽駅。特に駅北側は海が近く、鳥羽湾を気軽に散策できる水のある風景です。

 

数年前に海岸線が整備され、マルシェや遊歩道などもできました。

 

真新しい市営定期船のりば。鳥羽湾と大小の離島とを結ぶ、地元の人たちの重要なアクセスです。

 

足湯もありました。その昔、このあたりは「泊(とまり)場」「泊浦」などと呼ばれていたらしく、その後「鳥羽」に変わっていったそうです。この足湯の名称も、そうした由来にちなんで名付けられました。

 

風光明媚な鳥羽湾を左手に見ながら、遊歩道が続きます。目の前にはミキモト真珠島、その向こう側には鳥羽水族館。鳥羽の2大観光施設といっても過言ではありません。

◆鳥羽城がわかるタイムトンネル?

地下道らしきものがありました。そして何やら意味深な立て看板が入口付近に。これだけでは、この先に何があるのか見当もつきません。ただ、今回の目的地・鳥羽城址を目指すためにはここを通るのが一番の近道であることには違いありません。

 

早速、薄暗い地下通路に入ってみると。。驚くなかれ、鳥羽城の歴史がまるで絵巻物のように壁面に描かれていたのです。

 

イラスト主体で時系列に紹介された鳥羽城址の歴史。こんなわかりやすい施設がほの暗いトンネル内にあったとは。入口付近にあった意味深な看板は、観光客を驚かせるための伏線だったのでしょうか。

 

ここは「九鬼水軍ヒストリートンネル」なのだそう。まるでサプライズのような旅のイントロダクション。そして、マリンと歴史とのタイムスリップゾーン。鳥羽城址を訪れる人は、ぜひここからスタートすることをおすすめします。

◆歴史を感じる堀

トンネルを出ると、土産店や食堂などが道沿いに。この付近は、かつては鳥羽街道としてにぎわったところでもあります。

 

しばらく道を歩くと、妙慶川と遭遇。まるで堀のようなたたずまい。まさしくこれがかつての鳥羽城のお掘の一部だったのです。かつての堀のほとんどは明治時代に埋められてしまいましたが、このあたりだけはその名残を見ることができます。

 

唐人門跡。江戸時代には船着場として栄え、鳥羽の城下町の玄関口でもありました。明治10年に明治天皇が鳥羽に立ち寄った際も、ここから上陸したといわれています。

 

現在は商店や民家が建ち並んでいますが、その昔は城下町として庄屋や武家屋敷が並んでいたと思われます。残念ながら、歴史を感じさせる建物がひとつもありませんでした。

 

複数のボートが係留されている川の河口付近。かつては鳥羽湾に突き出した場所に建てられ、四方を海に囲まれた全国でも珍しい海城・鳥羽城の名残でもあります。

 

鳥羽城があったころの相橋あたり。武家屋敷から城に向かう武士が使ったといわれている主要橋で、ここが城の陸側の玄関口でした。ちなみに、古来は志摩国と伊勢国との国境でもありました。

 

堀のほとんどは埋め立てられ、現存する様子が見られるのはこの付近だけ。まちなみも静かで、今まで抱いていた鳥羽というイメージとはまったく異なる世界でした。水族館や遊覧船などの華やかな観光施設にはない、歴史の重みを重みを感じずにはいられませんでした。

◆嘉隆が見た水のある風景とは

今きた道を少し戻って大手門通りへ。そしてすぐに見えてきたのが、三の丸広場。近鉄志摩線の線路際に位置し、現在では鳥羽城址へのアプローチとして整備されています。ここから本丸を目指します。

 

いざ本丸へ!と思っていたら、背後から何やら奇声が。振り返ってみると、線路の向こう側にあったのは鳥羽水族館。これで事態が飲み込めました。さっきから聞こえているアウアウというユニークなサウンドの正体は、ショーに出演中の元気なアシカの声だったようです。もしかしたら、「本丸跡へ行ってらっしゃい!」という送り出しの声だったも知れません。

 

観光スポットとしてはあまりにも有名な鳥羽水族館。鳥羽を代表する史跡・鳥羽城址とはあまりにもミスマッチな取り合わせですが、鳥羽城があった当時は鳥羽水族館も城のエリア内だったそうで、両者は案外無関係ではありませんでした。

 

石段をいったん登り切ったところにあるのが、城山公園。♡TOBAのモニュメント。どこかの港町で見たことがあるようなモニュメントではありますが、インスタ映えするスポットとして若い人たちには人気があるようです。

 

鳥羽湾やミキモト真珠島などが見えてきました。こんなに手軽なオーシャンビュー。海岸べりを散策するのも悪くありませんが、同じことなら湾が俯瞰できるこの場所にも足を運びたいものです。

 

ちなみに、鳥羽水族館からは相変わらずアシカの元気な声が響きわたっています。

 

いよいよ本丸が近づいてきた時に遭遇したのが、本丸西側の石垣。もちろん当時のままの状態です。堀が現存する姿はほとんどありませんでしたが、石垣は残っていました。

 

資料によると、城址全体の中では最も保存状態のよい石垣だそうです。

 

天守跡に到着。この場所に、三層の天守と本丸御殿があったとされています。地形的にほぼ平らで、ゴツゴツしたものがほとんどないのが意外でした。

 

ここからも鳥羽湾ビュー。180度見渡せます。でも観光客は至って少なめ。この日出会ったのは、わずか数人でした。こんなに素敵な風景なのに、ちょっともったいない気がします。もしかしたら、この場所を知っている観光客はさほど多くないのかも知れません。

 

戦国時代、水軍を率いてきたリーダー・嘉隆。眼下に広がる海を見ながら、次々と戦略を練っていたに違いありません。

 

嘉隆は、天正6年の第二次木津川口の戦いで毛利水軍を打ち破り、信長の石山本願寺の攻略にも大きく貢献したといわれています。その後、志摩・摂津野田・福島など合わせて3万5千石を与えられ、その名を歴史に刻みました。

◆嘉隆 答志島に死す

しかしながら慶長5年の関が原の戦いでは、どちらが勝っても九鬼家が存続するとの判断から、嘉隆・守隆親子がそれぞれ西と東に別れて対戦するという奇策を敢行。結果、戦いに破れた嘉隆は答志島に逃れたのちに自害。結果的に九鬼家そのものも、わずか2代でエンディングとなりました。

 

はるか彼方に見える答志島。答志島といえば海女に代表されるように漁業が盛んなところですが、嘉隆にとっては最期に訪れた悲運の地。小高い場所には、鬼嘉隆の首塚・胴塚がひっそりと祀られています。もしかしたら、今も自身の城があったこちらを眺めながら、隆盛を極めた当時に思いを寄せているのかも知れません。

 

ほかにも城址には、当時の石垣が数カ所に現存。決して規模は大きくないものの、戦略家だった嘉隆の歴史のひとコマにふれる数少ないスポット。歴史ファンならずとも、想像力を駆使して海城独特の構造を思い浮かべ、九鬼水軍に思いを馳せてみてください。

◆嘉隆はアクアリストだった?

それにしても、平らな天守跡。まるで小さな運動会でも開催できそうな。それもそのはず、2008年に廃校になるまでの間、旧鳥羽小学校の校庭として使用されていたのです。

 

その証拠のひとつ、水飲み場。

 

こちらは廃タイヤを利用した遊戯具。

 

うんていの支柱があったと思われる跡。

 

そして土俵の跡も。城址だけでなく、廃校跡も今や立派な鳥羽の史跡です。

 

少し下へ下ると当時の校舎も現存。小学校としては100年以上の歴史がありました。

 

国の登録有形文化財として保存されています。

 

聞くところによると、かつての鳥羽城がそうであったように、小学校も白と黒の2色に塗り分けられたそうです。

 

一体、なぜ鳥羽城が白と黒に塗り分けられていたのでしょうか。理由は、「海の魚を保護するため」。嘉隆はそう考えて、海側の城壁をあえて黒色にしたというわけです。

 

これは意外なエピソードでした。日本で水軍として活躍した人たちは、平時には漁業や海運業に従事していたといわれています。水軍が築いた城だからこそ、海の魚たちへの配慮を忘れなかったということかも知れません。良質の漁場にはならないと判断したのか、あるいは自然のままに魚を生かしておきたいと熟慮した結果なのか。いずれにせよ、嘉隆はリアス式海岸の戦略家としてだけでなく、アクアリストとしての素養も持ち備えていたのかも知れません。

◆めだかの学校は~ホテルの~中

ひと通り取材を終え、まちなかを歩いていると観光案内的なものが。

 

よくみると、「めだかの学校」なる施設を発見。一体どんなところなのでしょうか。キワメテスタッフとして、これをスルーするわけにはいきません。直接電話を入れてみると、ホテルのフロントにつながりました。ここからさほど遠くもない距離なのだそう。ということで、予定にはまったくなかっためだかの学校へ。まったく予定外でしたが、急遽足を運んでみることにしました。

 

めだかの学校は、地元でも歴史のあるホテル敷地内にあるようです。期待と不安が入り交じり、ひたすら目的地へ向かいます。

 

坂道をひたすら登ります。鳥羽水族館のアシカの声が、ここまで聞こえてきます。その声に元気づけられて、くじけそうになりかけていたハートに、再びカツを入れることができました。

 

ここが、めだかの学校があるホテル「扇芳閣」。その歴史は、ホテルの前身である割烹料亭を含めると120年。かの御木本幸吉が日本で初めて真珠の養殖に成功しミキモト真珠島でさえオープンしたのが昭和に入ってからなので、それよりも歴史があるということになります。

 

早速ロビーの入口で、メダカ水槽とご対面。めだかの学校はこのホテルのウリにもなっているようですが、メダカ水槽は単なる序章にすぎませんでした。

 

初対面だというのに、親切なフロントスタッフに教えてもらって奥へ奥へ。宿泊客でもないのに、ホテル敷地内を自由に歩かせてもらうなんて恐縮しきり。

 

エレベーターで上がって、露天風呂への廊下まで通らせてもらって。

 

やっとたどりついたのが、めだかの学校でした。

◆自然との共存を目指す施設

思っていたより広かったのに驚きました。これはもう立派な自然公園です。

 

時間的にホテルのチェックイン直後ということもあり、露天風呂の行き帰りの浴衣姿で足を運ぶ観光客の姿もありました。

 

園内にはメダカ池があり、メダカが泳ぐ川があり、資料館まであります。

 

ビオトープの生物生息空間として、鳥羽水族館や地域の学校などからも注目されています。

 

そおっと覗いて見てみると、比較的サイズの大きい黒メダカの姿が。

 

本当に偶然だったんですが、この日めだかの学校の校長先生にも会うことができました。校長先生はここのホテルの3代目オーナーの谷口仙二さん。「現在は夢職(無職)ですから(笑)」と、色々話をしてくださいました。

 

それにしても、しれっと紹介するにはもったいなさすぎる施設。日も暮れ始めてきたことでもあり、後日改めて伺うことになりました。無理を承知で取材を快諾していただいた5代目オーナーであり仙二さんのお孫さんでもある谷口優太さん、後日必ずお電話しますね~。

 

鳥羽城址というスポットがあるだけでも意外な発見だったのに、城主はアクアリストだった可能性もあったとは。しかも、山にはめだかの学校まで。鳥羽は奥が深いところです。鳥羽水族館も鳥羽城址も、そしてめだかの学校も、水というかけがえのない資源でつながっていたことが、何よりの大きな発見でした。

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